『ヘボット!』最終章の物足りなさは何だったのか

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 先日、アニメ『ヘボット!』が最終回を迎えた。

 私は『ヘボット!』の大ファンである。しかしながら、最終章(47話~50話)の締めくくりには失望を覚えざるを得なかった。その理由は何か。①ループ・メタSF②カタルシス③週映アニメの3点から論じて行こう。

 

 『ヘボット!』のループSF構造

 メインパートはネジが島を舞台にしたパロディーギャグだが、シリアスパートが裏に存在する。宇宙の理を左右する「次元ネジ」を破壊すべく、ネジルゼロや太陽系会議ら上位存在が挑んでは失敗、その都度世界をリセットしてきた。しかしヴィーテ姫の中に潜む「終わらせる者 フィーネ」の封印が限界に達していた…。

 これ日アサの子供向けアニメか?と疑う設定ではある。

ループSFの面白さ

 ループSFの面白さは、ループは永遠に続けられないことにある。 

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   ループ状況に陥った主人公は、同じ時間を繰り返す中で経験値を積んでいく。死すらも超越し、無限に知識と経験を得ながら外的変化のない究極の安寧を貪る…。しかし、ループには負の累積効果が内在していることが明らかになる。1ループを経るごとに終わりに近づき、「繰り返される日常」の上位にある「個人の存在」そのものが消える時が来る。

①ループで漫然と成長する(かに見える)

②ループの終わりを悟る

③頭をフル回転してループを脱出し、真の成長を遂げる

 この3幕構造がループSFの妙味である。憂き世の逃避先である娯楽作品側から現実認識を要請されることこそが、メタ作品の存在価値と言っても良い。

ヘボット!』は「このループ」をリセットできない

 しかし、『ヘボット!』では事情は異なる。再三再四シリアス組が「時間がない」「最後の希望」と口にするように、現ネジルの居るこの世界が最後の周回であることが示される。

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 つまり回想シーンを除き、ループの負の累積効果を映像にするのは難しい。しかしながら、フィーネにはデリートという非常にオイシイがある。終わらせる者 フィーネに攻撃された者は宇宙から抹消され、周囲の記憶ごと存在が改変されてしまう。その世界改変は太陽系会議の列席者ほどの上位存在にまで及ぶことが示される。

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  身を挺して仲間を庇ったバッティが、次のシーンでは記憶と力を奪われた一般人になっている。第44話「劇場版ヘボット! ってナニそれ?」は名作回として名高い。この設定、使いようによってはメタレベルのループSF構造を作りえたからこそ、最終章の展開に物足りなさを覚えてしまったのだ。

気づかないというおぞましさ

 ヒッチコックの「テーブルの下の爆弾」の喩え話をご存知だろうか?

「テーブルの下に隠された爆弾が、観客にも登場人物にも知らされず爆発したら、それは一瞬の<サプライズ>しか生じない。テーブルの下の爆弾が、登場人物には知らされないが観客には提示されていた場合、そのシークエンスの間<サスペンス>が生じる」

 

  これはループSFの序盤、若しくは世界改変型SFにも通用する。登場人物たちはいつ気づくのか、いや彼らが気づくのが間に合うのかハラハラすることが楽しいのだ。これを踏まえつつ、『ヘボット!』に置き換えて行こう。

 『ヘボット!』をメタ視点でとらえた場合、繰り返されるものは「世界」ではない。観客に提示される1話1話こそが繰り返されるものだ(それこそ最終話「にちようびのせかい」で示されたように)。1年枠のギャグアニメのためキャラの役割は固定化され、場面場面の掛け合いは似たものになる。空気については、前回の記事を参照してほしい。

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 ここでループSFにおける「負の累積効果」を再度持ち出そう。世界のループは作れない。しかしフィーネの能力を上手く使えば、1話ごとの負の累積効果は作りえた筈だ。シリアスパートの上位存在の中には、分身や子孫を日常空間のネジが島に送り込んでいる者がいる。

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 上位存在がフィーネにデリートされることで、下部存在のアバター=日常パートの担い手すら改変されるとしたら…。これこそが前述のサスペンスに繋がる。前話で改変がなされたのに、何事もなく別の話が始まる。ライバルポジを狙う燃えカストリオ、ヘボットに黄色い声を上げるボキャ美、ツッコミを入れるチギル、画面に映ってるだけで可愛いユーコが登場するも、姿かたちは別の何かに置き換わっている。先週までと別人なのに、周りは当たり前のようにふるまうというおぞましさこそが改変SFの醍醐味だ。

 置き換えが増えるにつれ、本物が一人また一人と減っていくのがメタ次元における負の累積効果となる。ED2「社会のルール」のサビパート、ネジルの後ろを走る仲間が徐々に消え、集合写真もネジルを残し白紙へと変わっていく。考察班の間で憶測と賛嘆の声が飛んだこの演出が、ただの思わせぶりに終わったのは残念でならない。

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 カタルシス

 49話「さよならヘボット」において解放されたフィーネがデリートを乱発し、ネジルの周囲の人間が次々と消えネジルは記憶すら留めない展開は確かにある。だが、これが1話内、しかもBパートのみだったのは残念だ。

 先のヒッチコックを持ち出すまでもなく、サスペンスが長引くほどショッカーの快感(カタルシス)は増す。週映アニメだからこそ、最終決戦の行方は1週空けて欲しかった。観客がリアルで1週待たされればこそ、大団円の感動が増す。ラスボスすらギャグの対象にし、最終話で第4の壁を突破するおふざけをする辺り『ヘボット!』らしいと言えばそうだが…。

 

結びに

 御託を散々並べてきたが、改めて私はこのアニメが大好きである。そもそも子供向けアニメを考察すること自体が異常だ。ガキンチョの親世代すら分かるか怪しいパロディをブッコみ、バンダイの企画者本人を世界の創造主として登場させ、挙句朝アニメなのに玩具周辺商材の売上がヤバいというハッチャけぶりである。

 「ヘボット!」が監督の要望通り3年続かなかったのは残念である(続くわけがない)。今週のけもフレ二期騒動と合わせ、脳とけアニメの歴史がまた一つ閉じた。