2020年最大ヒット作『鬼滅の刃 無限列車編』についてちょこっと語る

粗筋 機能回復訓練を終えた炭治郎らに、新たな指令が下る。それは人の失踪が相次ぐ「無限列車」の調査。鬼殺隊、柱の一人煉獄杏寿郎と合流した一行だが、気づいた時には全員が夢の世界に取り込まれていて…?

 

①作品概説と前語り

 原作「鬼滅の刃」は、週刊少年ジャンプで2016~2020年に連載された漫画。鬼に家族を殺された少年、竈門炭治郎が妹の鬼化を解くべく、鬼に対抗する部隊「鬼殺隊」に入隊し成長していく時代ファンタジーです。子供や若い女性層も取り込み人気は爆発、1億部を超えるジャンプ最強のコンテンツになりました。

 アニメ版は「立志編」と題打たれ昨年放送。もともとufotableは写実的な背景とダイナミックなアクションに定評がありましたが、原作者の意向を容れたデフォルメの強いキャラデザ・外連味ある剣戟エフェクトやコミカルなシーンなど、原作のエッセンスを壊すことなく踏襲。リアリティと漫画的な抽象性、その両立が叶ったからこそアニメ史上でも類を見ない特大ヒットをこちらも飛ばしました。

 

 …映画評に移る前に、私個人のスタンスを設けます。飽くまで「映画」作品単体での評価であり、鬼滅の刃というコンテンツそのものを難じる意図はありません。漫画、アニメ共に既に触れ、大いに楽しみました。

 それでは先に今作「鬼滅の刃 無限列車編』を見た私の結論を提示します。「テレビでやれ!」。

何故こう考えたか。

1)粗筋の全省略、2)台詞ダダ流し、3)「反復と変化」が存在しない…以上3点からクダクダと述べていきます。基本全部ネタバレするので未見の方はご注意を。

 

②粗筋の全省略

 本作、粗筋が存在しません。どんな世界(いつの時代)で、何故鬼と戦っていて、彼らは誰(どういう生い立ち)で、どういう流れでお話が始まったのか…そういった導入が一切なく、いきなり無限列車へと乗車するところからスタートします。

 通例、テレビアニメが劇場版になる場合は、それが劇場オリジナル作であれ、再編集(総集編)版であれ、冒頭でキャラクターの紹介は入るものです。一方、本作はテレビアニメ26話目の終わりから直に繋がっています。そのため、映画で初めて鬼滅に触れる層には戸惑いが出ます。「竹咥えた女の子が居る」「猪が喋ってる」なんてレベルの感想もネットにありました。

 

③粗筋の全省略:作品外部

 この作りを、評価する声もあるでしょう。炭治郎のナレーションで説明されては、劇場版のシリアスなタッチと合わない。アニオリバトルを冒頭に挿入するというのはオリジナル劇場版定番のやり口ですが、尺の都合上無理だったかもしれない。でもね、「映画の前」には付けられなかったのか。

 

 ここで一旦、興行面での話をさせて下さい。コロナ時勢に入り、映画館は自粛明け後3か月間、座席の使用率を50%に制限してきました。ところが鬼滅の刃封切で多数の観客が詰めかけることが予想されたため、先週末遂に座席使用の制限が一斉に取っ払われました(事実、鬼滅の初週売上は世界史上最大の記録をたたき出しました)。

 3密を避けるため、映画館ではマスクの着用、私語の厳禁、隣との間隔がない中での飲食の自粛が奨励されています。劇場マナームービーにこれらの項目が追加されもしました。で、これこそ今回鬼滅キャラでやるべきだったんじゃないですかね??キメツ学園でも、大正コソコソ噂話の形でも良い。鬼滅に映画で初めて触れる層へは世界観へのざっとした導入に、既に漫画・アニメに親しんでいる層にはファンサービスになる。

 

 これを推す理由は2つあります。

 一つは映画館に普段通わない層への啓蒙。責任能力のある年齢になってルールを守らないクソバカは論外ですが、鬼滅の刃の主要なファン層であるちびっ子達はそもそもルールを知らない・映画館に来たことが(少なくともコロナ時勢以後)ないかもしれない。そうした層への啓蒙は必要でしょう。

 もう一つは、制作がufotableであること。ufotableは『空の境界』シリーズ辺りから評価を高めて来ました。そのシリーズでは毎度、劇場で本編開始前にオリジナルマナームービーが付いていたんですよ。当時は人形ストップモーションアニメでしたが、ufotableにはそうした寸劇の技術・ノウハウがあるのは確か。

 

 こういった理由から、ざっくりとした形で良いから世界観導入が欲しかったところ。それともあれですかね?(Fate評で詳しく書きましたが↓)一見さんお断りがufotableの断固たるスタンスなのか、

https://magiclazy.diarynote.jp/202008202313364863/

それとも鬼滅の刃はもう教養扱いなんですかね?

 

④粗筋の全省略:炭治郎の懊悩

 では、ざっくりした知識はあるものとしましょう。一応来場者特典の小冊子にも粗筋がありますしね。けれどそうだとしても、粗筋全省略に起因する問題が一つあります。それは主人公炭治郎の葛藤が、減じてしまう点。

 

 本作では、夢を操る鬼、魘夢が登場します。善逸、伊之助、煉獄らはコミカルな夢なのに引き換え、シリアス成分は炭治郎が一身に背負う。しかし彼の人物背景が一切無いせいで、それが有ったなら生じた筈の感動や苦悩が減ってしまうんですよ。

 一つ目は、現実には死んだ弟たちに会って号泣するシーン。例えばここ、序盤の乗車シーンでそれとなく炭治郎の背景を示せませんかね?荷物運びを助ける相手をジジババではなく、痩せた父親・優しい母親・元気いっぱいの子供たちにするとか。或いは車窓から見た風景で、夕暮れの中家路を急ぐ家族を映すだとか。そこで炭治郎の瞳がきゅっと絞られ、下唇を噛むような演出があれば、夢とはいえ再会した時の感動は増す。

 

 もう一つは妹、禰󠄀豆子の夢登場シーン。炭治郎は遂に夢を夢と認識し、追いすがる家族を振り捨て森へと駆ける。しかし禰󠄀豆子の姿を見て、決意が鈍ってしまう…んだけど、ここ鬼滅ライト層にとって意味不明じゃないですか?その直前の現実シーンで、禰󠄀豆子はクッッッッソ可愛い立ち居振る舞いを見せてくれます。あれ、現実と夢で違いあるの?っていう。

 彼女は鬼のボスによって鬼に変えられている。テレビアニメ終盤、「柱合会議」の回で彼女は吸血衝動に苦しんでいることを炭治郎が見せつけられます。「自制はしているものの、何時か人を襲うかもしれない。だから人に戻したい」。これが旅の目的なんですよ。

 だからこそ夢パートの前半で、禰󠄀豆子が指の切り傷なりを舐めるシーンが欲しかった。些細な日常描写ながら忌まわしさを想起させ、「夢の中なら禰󠄀豆子はずっと普通で居られる」ことを示せる。そういう描写がないから、炭治郎が涙ながらに現実に戻る苦悩が伝わらないんですね。

 

⑤台詞ダダ流し:テレビと映画

 2点目に移ります。過去日記を参照して欲しいんですが↓

https://magiclazy.diarynote.jp/202010170040496901/

ざっくり言うと、映画はテレビよりも観客の集中度が増すため、省略や間接的な表現の方が適しているという話です。「何だろう…この縄を日輪刀で切ってはいけない気がする。禰󠄀豆子!この縄を焼いてくれ!」って台詞で全部言わなくていいっす。

 

⑥台詞ダダ流し:Time frame in comics

「原作がこうだから」。そんな反論もあるでしょう。ここで、一冊の本を紹介したい。Scot Mccloudの『Understanding Comics』です。漫画形式で漫画の歴史・形態・特性を解説した古典的名著ですが、時間表現の項でこんな一節があります。

 

「漫画はコマの形、大きさ、背景効果、吹き出しによって1コマの時間、コマとコマの間の時間を自由に伸び縮みさせられる」

 

 『鬼滅の刃』原作は、まさにこの特性を活かした作品でした。バトル中の炭治郎のナレーションがとにかく多い。開幕当初は鬼との実力差に圧倒されながらも、冷静に観察することで、敵の弱点や活路を見出す。技の応用をバトル中に気づく展開しかり、「戦いの中で成長する」バトル漫画なワケです。でもこれって、「コマ内・コマ間の時間を観客が脳内補正する」漫画形式だから成り立つこと。それを実際に映像化するのは、別問題なんです。

 

⑦台詞ダダ流し:バトルシーン

 映画無限列車編、バトルシーンの会話が多すぎです。心内吐露、「~の呼吸」の技名宣言は、話者の一瞬の思考を表現したものとして了解できます。でも、実際に口に出してやり取りする会話は別ですよね。

 例えば覚醒した煉獄と炭治郎のやり取りのシーン。「ここに来るまでに斬って来たから、再生には時間がかかる筈だ」との説明はあります。でも、車体から肉塊が盛り上がり触手を形成するのに僅か数秒だと映像で示している。それなのに、ぼさっと突っ立ったまま1分も会話するのってどうです?アクションとして死んでしまうし、絵面も間抜けじゃありません?ここ、2人が移動しながらだとか、伸びてきた触手を顔も向けずに斬り払うだとか、「会話はしているが周りの事態に常に気を払っている」表現は取れなかったんですかね?

 

 機関室と同化した魘夢VS炭治郎・伊之助タッグのバトルにも同じことが言えます。魘夢に味方した機関士の処遇で揉める、魘夢の罠に嵌りそうになる炭治郎を諫める…。映像にしてしまうと、どうしても20秒以上かかってしまう。1秒を相争う事態の筈なのに、会話の間は魘夢は律儀に待ってくれてるんですかね?

 

⑧反復と変化の欠如:感情移入

 最後に、反復と変化の欠如について。

 僕が人でなしなのかもしれないですが、この映画で泣けたって感想が出るのが分からないです。だって、観客のエモーションを高める映像的な伏線がないから。

 感動の一つとして、炭治郎・伊之助・善逸への感情移入があるでしょう。炭治郎は、止血について短いながらも煉獄との交流パートがあるのでまだ分かる。しかし伊之助と煉獄の交流は作戦を伝える回想パートのみ、善逸に至っては死に目にすら会えてないですからね。「駅弁に美味い旨い連呼する変な上司」くらいしか生前の記憶ないでしょ?なのにあんなに号泣するの?

 

 ここで、映像的な伏線ってつけられた筈なんですよね。例えば「魘夢の本体を探せ」と煉獄が伊之助に伝える回想シーン。そこでちょっとした手助けを煉獄にさせる。伊之助は粗暴なツンデレキャラなので、一度目はきっと横柄な対応をする。

 それを今度は、猗窩座戦で繰り返させる。煉獄が最期の力を振り絞り、夜明けまで猗窩座を食い止めるシーンがあるじゃないですか。炭治郎の掛け声で伊之助が加勢するも、猗窩座には歯が立たないですが、そこで猗窩座の反撃を煉獄が逸らさせる。同じ構図で2度守られたとなれば、粗暴な伊之助でさえ煉獄の死に男泣きするのも納得できるんですが。

 

⑨反復と変化の欠如:成長譚=開いた物語を閉じる

 キャラへの感情移入でなくとも、物語構造で感動することもあります。その王道が成長譚でしょう。今作、成長譚としての構造を取れた筈なんですけどね。 

 映画冒頭で鬼殺隊の長、産屋敷は墓石を前に語ります。「私の子供たちは命を落としたが、彼らの意志は受け継がれている」と。煉獄もまた、次代を担う者を教え守るのが自分の使命だと言います。それは今は亡き母親の教えだからこそ、彼は命を賭して隊下士を守り抜き、死に際には屈託のない笑顔を浮かべた。なら、ならさぁ!それが炭治郎に受け継がれたことを示すのが、映画単品としての筋じゃないの?

 

 継承を示すのに、台詞でそのままやっては台無しですよ。炭治郎の師、鱗滝も言ってますよね。「頭で理解して終わりではなく、それが自然に出来るようになって習得なのだ」と。所作で示してこそです。

 煉獄が弟、千寿郎を励ますシーンを覚えてますか?力なく垂れる手をそっと掬い取り、胸の前できゅっと握ってやる。あるいはママ獄のシーンでは、彼女は息子をそっと抱きしめ頭に手を置いてやった。そういう動作を、煉獄の死後…今度は炭治郎がするんです。泣きじゃくる善逸を慰めるでも良い、兄の訃報を千寿郎に告げるカットでも良い。煉獄は死んでしまったけど、彼の高潔な魂は確かに炭治郎に受け継がれた。映画の冒頭で立てた「意志の継承」を、ラストで綺麗に回収できるじゃないですか!!

 それなのに映画ラストでやるこたぁ、3人が大声でぎゃあぎゃあと泣きわめき、柱連中が「あの煉獄が逝ったか…」と神妙になるばかり。結局さ、この映画はアニメ2期への繋ぎに過ぎないって構造なのよ。映画単体のまとまりは気になさらないんですかね!!!

 

 

⑩結びに

 まあさ、作画は良かったよ。猗窩座の「術式展開 破壊殺・羅針」で陣が起動する下りはクッソカッコいいし、煉獄の最終技で火の鳥がぐりぐり動くのも良い。でもさ、作画の派手さとアクションの躍動感って同一なのかな?

 

 映画には列車アクションというジャンルがある。例えばあのポンジュノの『スノーピアサー』では、弧を描く線路上で列車の前方・後方が側面同士でのガンファイトを展開する。或いは『ローン・レンジャー(2013)』では、機関車2台が並走・立体での交差をしながら線路・橋・屋根・トンネルありとあらゆるギミックを活かしたアクションを展開する。「列車でしか出来ない絵面」なんですね。

 魘夢戦が残念なのはここです。炭治郎が天高く跳躍する・伊之助が縦横無尽に奮迅する…確かにufotableらしい、カメラアングルがグリグリ移動するアクションは健在です。でも、列車という舞台立てを活かしたアクションがない。原作よりもっと奇想天外でダイナミックなアクションが出来た筈なのに。

 

 こう言うと「原作レイプ」って反論が出るじゃないですか。別にね、オリキャラ・オリジナルストーリーやれとは言いませんよ。でも僕は、劇場版という独立した形で世に出す以上は、映画単体としての価値を作品は持つべきだと言いたい。ストーリーの飲み込み易さ、アクションのテンポ、まとまりの良さ…そういうものを捨てて、「テレビアニメのアップデート版」であることしか追求していない。「あのアニメ『鬼滅の刃』が帰って来た!!」って感動した?別に良いよ、でもそれならテレビでやってろ